平静を振り返る体験的経済政策 その1

令和時代をより良くするため平成を振り返る体験的経済政策編(その❶)です。
日本経済30年間の名目成長は、1.3倍。アメリカ3.6倍、中国52倍。日本が普通の先進国の名目4%台成長を遂げていれば、中国に抜かれていませんでした。
平成元年(1989年)、バブルまっただ中、消費税3%がスタート。減税先行でしたので景気を冷やすことはない、と考えられていました。
ところが、その年11月、ベルリンの壁崩壊で世界のおカネの流れは統一ドイツに向かいます。そんな時、「平成の鬼平」と異名を取る三重野日銀総裁が誕生し、いきなり利上げを始めました。
日本の株価最高値は元年大納会の38.915円。翌年からバブル崩壊が始まります。
月例経済報告という毎月総理官邸で行われる会議には、政府与党幹部・日銀が出席。当時、政調会長だった私の親父・渡辺ミッチーは、三重野総裁と毎回激論を戦わせました。
「バブルを潰すための利上げには反対だ。一般物価は上がっていない。株価や地価が異常なら、回転売買や土地転がしを規制すれば良い」というのがミッチー。
平成3年(1991年)にはソ連が崩壊、土地バブルも崩壊。その年の秋、自民党総裁選に出たミッチーは「もう手遅れだ」と明言していました。
案の定、平成4年(1992年)には株価急落で金融危機が始まり、副総理兼外務大臣のミッチーは、所管外の不良債権処理(間接償却)と景気・株価対策を緊急提言します。膵臓癌の拡大手術を受け、入院中のことでした。
その後、残念ながら政府は根本療法先送り、兵力逐次投入の弥縫策に終始します。
平成7年9月、父は他界しますが、最期に読んでいた本が「1940年体制」(野口悠紀雄)でした。そう言えば「戦時体制と占領政策はつながっている」とよく言ってましたね。
消費税が5%に引き上げられた平成9年(1997年)、日本は本格的金融パニックに陥ります。
当時1年生議員だった私は、三洋証券の破綻でコール市場が恐慌を起こしたのを受け、銀行への資本注入スキームを提案。大蔵省は絶対反対でしたが、拓銀・山一の破綻に驚いた梶山静六さんなどが同様の提案をし、大蔵省を押し切って2ヶ月で法案化。
しかし、資本注入が中途半端で危機は継続。長銀・日債銀の破綻処理法が作られます。私の案は銀行のシャッターを開けたまま破綻前処理するスキームを重視。そうしないと、危機の連鎖反応を鎮静化できないからです。
ついでながら、この破綻前処理法(金融健全化法)を巡ってできた政治の枠組みが今の自公(最初は自自公)連立でした。
平成11年(1999年)、私が出した案は、銀行サイドの不良債権処理(直接償却)と産業サイドの過剰債務処理を同時に行う根本療法(平成復興銀行構想)。この間、財政と金融は思い切りフカしておくものでした。
名付けて「日本経済復活のバイアグラ大作戦」。当時出たばかりのこの薬は本来、術後の傷口の回復を早める毛細血管拡張剤だったから。大手術の後、ハイパワードマネーを大量供給した方が経済も治りが早い、と考えましたが、ヒンシュクも買いました。
産業再生機構という私が金融担当大臣当時、約500億円もの剰余金を出して解散した組織は、もともと私の案がベースになったものでした。(続く)
(ミッチーの写真は文藝春秋、愛子様のシンボルフラワー ゴヨウツツジ、ドウダンツツジ、シロフジ、いずも親父が自宅に植えたもの)