平成31年度は「令和元年度」元号の歴史上初の国書を典拠

平成31年度は「令和元年度」になりました。

大化の改新でお馴染みの「大化」以来、元号の歴史上初の国書を典拠。それも古事記や日本書紀でなく、「万葉集」。2度ビックリですね。

因みに、大化の改新は蘇我入鹿の暗殺から始まったとされていますが、実質は、それ以前からの推古天皇、聖徳太子・蘇我馬子による改革で、日本型律令制(法制・税制・土地制度)を確立したものです。

日本は、中国のような皇帝中心ではなく、ヤマト建国以来尊重されてきた祭司王である天皇が実権を持たない合議制を基本としていました。

古代史作家の関裕二さんによると、藤原氏一族がこの律令を逆手に取った天皇の政治利用、即ち、天皇の「命令」として独裁的権力を行使。あらゆる手段を駆使して政敵を闇に葬った。

楯突く者は皇族といえど容赦せず。その正統化のため、日本書紀において歴史の隠蔽・改竄が行われました(Forshight 2011年1月4日)。

それに猛反発した人達が、隠喩や暗示を駆使しながら抹殺された歴史の真実を刻印した「反藤原派の告発の書」を編纂した。それが「万葉集」というわけです。

新元号「令和」が生まれる舞台は、大伴旅人が太宰府に赴任して(左遷されて)いた頃の話。序文は山上憶良との説も。

別の卷で旅人は、お酒にまつわる歌をたくさん読んでいます(卷3-338〜350)。その中で「あな醜(みにく) 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかし似る」。

この猿に似ているという辛辣な批判は、奈良の都で権勢をふるっていた藤原氏に向けられた可能性が高い。

旅人は当時、藤原氏の専横に反対し、律令に戻るべし、との考えを持った皇位継承権のある長屋王を後押しし、「反藤原派」を形成していました。しかし、藤原4兄弟は切り崩し工作を行い、旅人が都を離れた隙に長屋王を抹殺。一族は滅亡します。

旅人はこの後、藤原氏に命乞いをし、帰京を許されます。

万葉集一番最後の歌は、旅人の息子・大伴家持の正月に関する歌です。「新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)」。

藤原氏独裁体制が完成した政治状況で、まつりごとに絶望しながら、新しい年を迎えるにあたり、かすかな望みを歌に託したのでしょうか。

こうした万葉集から新元号は選ばれたんですね〜
感慨深いものがあります。どんな不条理な目に遭っても、自分の信念に忠実にしたたかに生きて行こうと思います。

改めて令和を平成よりも、もっと良い時代にしよう、原点に立ち返って改革を進めて行こう、と政治家の端くれとして考えます❗️ 日本🇯🇵を再び輝ける成長国家にいたしましょう‼️

(写真は、梅の花でも桜の花でもない、うちの親父が何十年か前に自宅の庭に植えたもの。名前は???)

 

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